フラット化やオープン化は今の日本人にとって本当の外圧的な脅威か?

歴史小説家の司馬遼太郎のエッセイに「この国のかたち」という本がある。私は司馬遼太郎が好きなのだが、久々にこの本を手に取って見た。話は少しそれるが、少し前に、榊原英資氏がいう次のようなコメントを引用させてもらった。

「米国を見習い、これを追い越すことに注力してきた日本も曲がり角にきたのである。ものが次第に売れなくなってきているし、恐らく、この傾向が逆転することはない。」「これからの成長産業は、少なくとも先進国では製造業ではなく、農業・医療・教育などだろう。日本では今まで規制が強く、社会主義的だったこれらの分野を成長産業に育てていくことができるかどうかに、この国の将来はかかっている。

ここで言う米国を見習ってはいけないというのは、恐らく金融資本主義的な経済政策による既存資本の更なる成長などを言うのだろう。これまでもいくつか言及してきたが、既に世界の製造業も国際的にフラット化するなど、ICT産業で先行しているフラット化やオープンソース化などが農業・医療・教育などの分野で新たなフロンティアを築いていくように思っているのだが、日本人の歴史的な変わらぬ習性をもう一度復習しておくのも今後の変化の切っ掛けを掴む上で大事な気がした。
果たして、フラット化やオープン化は今の日本人にとって本当の外圧的な脅威なのだろうか?

古来から、日本人は海外思想の外圧で社会を変革
司馬遼太郎の「この国のかたち」の冒頭、「日本人は、いつも思想は外からくるものだと思っている」、うん、なるほど。
中国などでは、春秋戦国時代など多様な思想の創出を背景とした殺戮が行われて、やがて1つの普遍的な思想のもとに人々が服することで秩序の安定が得られるという思想の創出の歴史があるが、日本にはそうした自前の展開がなかったのだという。
そして外圧という波が、諸外国に比べても驚くほどの速さで統一国家を勃興させる特徴が日本にはあるという。代表例が7世紀の大和朝廷による日本統一、1869年の版籍奉還だ。
ただ、日本への外圧は、隋の皇帝が高句麗を攻めたり、英国がインドを植民地にしたりといったような具体的な外圧ではないという。そうではなく、情報による想像が恐怖になり、共有の感情を日本国内に作らせて、例えば19世紀の帝国主義的な列強についての情報とそれに侵略されるのではという想像と恐怖の共有が明治維新を起こさせた。
こうした歴史の背後では、日本では常に思想を体化した書物が輸入の最大目的物であり続けたという。7世紀の律令制しかり明治維新の西洋思想しかりであるが、どれも戦いなど血肉を持って社会化されたのではなく、創意工夫や勉強好きを通じて社会化された世界でも類まれな国民であると、司馬遼太郎は言う。

何故か、日本人は徹底して真面目に新しい社会制度を作ってしまう
しかも、「明治の平等主義」での司馬遼太郎の記述は更に面白い。フランス革命など他国の革命では、革命後も依然として別の階級社会が温存されるなど、階級として得をした者も存在したのに対して、日本の場合には版籍奉還や現金による納税性導入に見られるように全ての階級層に犠牲を強いた徹底した平等主義がなされたという。即ち、例えば、政権を奪取した薩長の藩主自身も下級の家臣により版籍を剥奪されたり、現金による納税制の導入では、自給自足の自作農者が商家など現金保有者に小作農として雇ってもらうなどの犠牲の上で実現できたという。つまり、何故か、日本人は徹底して真面目に新しい社会制度を作ってしまうという習性を持っているらしい。

今の問題は、フラット化やオープン化が今の日本人にとって本当の外圧的な脅威になっているかどうかだろう。
人気ブログランキングへ